吉野家の歴史 倒産から再生へ 1980年〜

1980年(昭和55年)

重ねて急速な店舗展開により資金繰りの悪化も重なり、1980年7月、会社更生法を申請。この倒産を機に、従業員たちは「牛丼がうまくなくなったら、お客様が離れてしまう」「お客様あっての吉野家である」と身をもって実感。牛丼の品質にはより一層敏感になった。

そして、本来の「吉野家の味」を取り戻すため、まず不採算店を閉め、開発途中のフリーズドライ肉等の使用を止め、お客様に来店いただくため、初めて全店での割引セール「再建セール」を実施することで、お客様に戻ってきていただくことで、原点の吉野家の「牛丼」に戻した。

1982年(昭和57年)

朝の時間帯限定メニュー「朝定食」を全店で導入。当時、外食チェーンで朝の時間帯限定メニューを導入したのは吉野家が初であった。

1983年(昭和58年)

お祭りや運動会などの各種イベントの需要に応えるため、キッチンカーで牛丼弁当を販売するようになったり、臨時店舗を出すようになった。

1986年(昭和61年)

店にある箸箱の蓋が45度で止まる仕様に変更し、特許をとった。お客さまが箸を取り出しやすくするため、また、蓋が従業員にぶつからないようにするための配慮から。今もこの仕様が施された箸箱が店舗にある。

また、この頃の店舗の看板は六角形の看板であった。

1989年(昭和63年)

この年、日米貿易交渉で1991年から牛肉・オレンジの輸入枠撤廃が決定され、これまでは商社に商材を発注するだけであったが、吉野家で使う部位だけを効率的に仕入れるため、より使いやすい牛肉のトリミングの研究を開始した。

この吉野家用のカット部位は吉野家スペックと命名され、のちに「ジャパンスペック」となり、現在はショートプレートという名称で流通している。

1991年(平成3年)

4月に牛肉の輸入が自由化され、吉野家の出店が加速し始める。また、同年10月には牛丼「特盛」を全店舗で販売開始。

牛丼「特盛」

1993年(平成5年)

米国から逆輸入したウォークアップスタイルの「YOSHINOYA USA」1号店が東京・国立にオープン。同年、「吉野家の牛丼を自宅でも食べたい」というお客さまの声から「冷凍牛丼の具」を販売開始。

1994年(平成6年)

1993年の冷夏の影響を受け、日本の米不足が深刻化し、タイ米を使用。タイ米は長粒米で日本の米とは種類も違うため、ブレンドして炊いても日本人が満足する味にはならず、牛丼のうまさに違いを感じたお客様の来店が減少した。

その後、1994年(平成7年)産の日本の米を提供できるようになった瞬間から、従来のキャッチフレーズを「はやい、うまい、やすい」から「うまさ」を重視したことを伝えるため「うまい、はやい、やすい」に変更。

ご飯、味噌汁に焼鮭、納豆、玉子、海苔がついた栄養バランス良好の定食「特朝定食」を全店舗で販売開始。

1997年(平成9年)

ご飯、味噌汁に牛小鉢、焼鮭がついた「牛鮭定食」を全店舗で販売開始。吉野家ではこれまで朝の時間帯だけ定食を販売していたが、初めて24時間販売された定食。既存のお客様以外にも幅広い層の方にご利用いただきたいと商品開発が行われた。

1998年(平成10年)

高知県へ吉野家が出店。47都道府県すべての出店を果たした。

高知県へ吉野家が出店

2001年(平成13年)

通信機器の普及などにより「はやい」の概念が変化した頃、はやいよりも「うまいとやすいを両立させる」ことを重視。キャッチフレーズを「うまい、はやい、やすい」から「うまい、やすい、はやい」へ変更した。