創業期
1899年〜
1923年に発生した関東大震災により店舗焼失。魚河岸全体が大きな被害を受け、日本橋から築地へ魚市場を移転。それに伴い、吉野家は1926年に築地の新大橋通りに移転し、店舗営業を再開。
築地に中央卸売市場が開設される。魚河岸で働く人々の熱烈な要望があり、吉野家は築地市場内へ移転した。
東京大空襲により再び店舗を焼失するが、戦後すぐに屋台で商売を再開。戦災にもめげず「市場の復興に携わる人々に活力を提供したい」という思いで立ち上がった。
食材も十分に揃わぬ状況下での営業であった。
松田栄吉に代わり、息子の松田瑞穂が本格的に吉野家の経営に関わるようになる。瑞穂はかつて築地に店を構えていた人達と組合を作り、築地市場の一角に飲食店が集まるフードセンターの中で店舗営業を再開した。
当時、吉野家の牛丼は鰻重と同じくらいの価格設定で少々高級な食事とされていたが、店舗にはお客様が絶えなかった。
築地店、場内に移転。店舗のカウンターの後ろにはお客様が2~3重に囲んで順番を待つほどの繁盛店に。吉野家は「早い、うまい」のモットーをこの頃から掲げ、多くのお客様が吉野家の味を楽しめるよう、商品の絞り込みを行い牛丼のみを提供するようになった。
また、「お客様は牛肉を食べに来ている」と考え、たっぷりの牛肉と牛丼にベストマッチする玉ねぎだけの具材でシンプルな牛丼の提供をはじめた。当時、牛丼以外に提供していたのは玉子とお新香のみ。